3
一歩踏み込むと周りは深い森の中だった。
振り向くと入り口はもうなくなっている。
「なんてベタなんだ」
ヴィルは一人ごちたが誰もつっまなかった。
樹齢三百年はあろうかという木にはびっしりと緑の苔が生えていた。獣が歩かないためか苔は靴が半分埋まるほどの高さになっていた。
「よう、ヴィー。」
背後からの声。
ヴィルは剣を抜き放すと同時に振り返った。
「し・・・・・・・師匠!」
木の根で一段高くなっているところに柔和な顔をした老人が座っていた。
「よう、ヴィー。あれはどうした。剣にはつけていないのか?」
老人はふわりとヴィルに近づくとヴィルの剣の柄を軽く撫でた。
「:::奪われた:::。」
ヴィルは下唇を噛みしめた。
「どうやって?」
老人は柔和な笑顔を保って続けた。
「::魔法使いの小娘の高速体術:::。」
老人はゆっくりと腕を持ち上げた。
ヴィルはそれを目で追った。
「っっっ!」
次の瞬間の衝撃をヴィルは理解できなかった。
地面に頭が叩きつけられたときにやっと老人に殴られたことに気づいた。そして、受け身もとれなかった自分に気がついた。
「問題は速さではないだろう?」
老人は相変わらず優しげな微笑みをヴィルに向けた。 そして、微笑みながら二刀を抜いた。
長さの違う二本の剣。
「くそっ。」
ヴィルはすぐに立ち上がると構えた。
口の中で血の臭いがした。
老人はふわっと飛び上がると長刀で額を割ろうとした。
ヴィルは避けることもできず、うけて、無様に転がった。
「一体お前は私と別れてから何をしてきた。受け身もとれない。カタツムリほどの速さしかない正拳がとれない。そして、小娘に負けただと?いったい何のためにお前は剣を持った。己の使命を忘れ、ただ孤独の中で安穏とし、木偶の坊どもを斬るために剣を持ったのか?」
ヴィルは立ち上がった。
「いきなりシリアスかよ。」の疑問を懐で暖めつつ、老人の目を見た。
確かに師匠である。
確かにあの国境で殺された師匠だ。
ヴィルは自分の剣で自分の右腿を突いた。
血が服に染みた。そして、緑の苔の上に鮮やかに流れた。
「てめぇ。クソジジィ。グチャグチャ言いやがって。一遍、白黒つけてみてぇと思ってたんだ。いい機会だ、ぶっ殺してやる。」
ヴィルは一気に間合いを詰め、左から右に剣を薙いだ。
老人は逆手に持った短刀でそれをうけると右手の長刀で一気に首を狙った。
ヴィルは左に飛んでそれを避けた。
「甘い甘い。隙だらけではないか。」
老人は間を入れず短刀で鳩尾を狙う。
ヴィルはやっとの事でそれを払った。
払ってできた空間を今度は長刀が脇腹を狙った。
「ちっっっ!」
避けきれず、切っ先が腹の皮を抉った。
「しゅっっ。」
よろけた隙に老人の蹴りが入って三メートル後ろに飛ばされた。
「どうした。私はなんと教えたか。確かに予期しなかった別れで全てを伝えることはできなかった。が、それにしてもお前は悪い、悪い。」
ヴィルはゆっくりと立ち上がった。
「目で追うな、:::か。」
そして、真横に落ちてきた葉を振り向かずに切った。
「そうだ。」
老人はにっこりと笑った。
ヴィルは目を瞑って再び間合いを詰めた。
そして、下から腹を狙って振り上げた。老人はそれを避けて、耳に長刀を叩きつけようとした。
ヴィルは目を瞑ったまま軽く流すと心臓を狙って突いた。
老人は後ろに転がりながら避けると、反動でヴィルの膝の裏を蹴った。
ヴィルは再び転がった。回転しながら間合いを取って立ち上がった。
「なるほど。そこそこは出来るようになったではないか。」
ヴィルは大きく息を吐いた。
不思議だった。師匠は目で追うな、と昔教えてくれた。そのときは解らなかったが、目を閉じると他の感覚がとても鋭くなる。耳はよく聞こえた。空気の流れを感じた。 ヴィルは構えずに大きく不用意な一歩を踏み出した。 老人はすうっと近づくと長剣を振った。
ヴィルはそれを避けなかった。
切っ先はヴィルの上着に切れ目を入れた。
ヴィルは剣を老人に向かって振り上げた。
「くっ!」
老人は辛うじて短剣で受けると間合いを取った。
「久しぶりだ。感情がない。いや、俺がない。剣がどう来るか解る。どうすればよいか解る。」
ヴィルは剣を鞘に収めた。
「はは、ようやく戻ってきたか。だがな、それだけではまだ足りんな。わしを倒し、玉を取り返すためにはまだ足りん。」
老人はヴィルの右を突いて攻撃を仕掛けた。ヴィルはそれに反応して右足に重心を移動させた。
そして、転けた。
老人の剣はヴィルの後頭部をかすめた。
「怒りから無我に来た。そこまではわしはしっかりお前に教えた。それが強さに近づく道であるとな。だがな、もう一つステップがある。お前はそれに気づくかな。」
老人は倒れているヴィルに長刀を振り下ろした。
ヴィルは首だけでそれを避けた。長刀は地面に刺さった。
「無は有である、だろ。」
ヴィルは老人の目を見た。
老人は微笑みながら頷いた。
ヴィルは立ち上がると長刀を抜こうとした老人の腕を切った。そして、返す刃で首を狙った。
老人は再び短刀で防いだ。
がちっという音がして剣が折れた。ヴィルは折れた剣を目で追った。自分の剣だった。
老人はすかさず突いた。
ヴィルは左手でそれを防いだ。
短剣がヴィルの左手を貫いた。
ヴィルはそのまま老人を木に押しつけた。
「ヴィル。よくやった。わしはここで再び死ぬ。お前の折れた剣の代わりにわしの剣を持ってゆけ。」
老人の腹には折れた剣が深々と刺さっていた。
「師匠::::。」
「無は有。我はなければならない:::。己をしっかりとたも::て::::::。」
ヴィルは左手を短剣から抜いた。
そして、力無く倒れた。
4
扉を開ければ、そこは上空3000メートルほどの空中でした。
はい、当然のことながら落ちます。
しかも今回は昔の清水寺の時のように咲殿はいないわけで…どうも、助からないようで。
いやー、なんか妙に落ち着いている自分が怖かったり怖くなかったり、ぶっちゃけ怖いんですが。
とりあえず、神様に祈ってみたりして、後は下を見ないで澄むように眼でも閉じてみましょうか。
「讃岐さん」
声が、する。聞き覚えのある。懐かしい。
「んー?いつまで寝ているのです」
低く、少しばかり怒っているかのような声。とても、聞き覚えがある。
ただ、この声で、この口調というものには聞き覚えはない。
「ん〜、これは困ってしまいましたねぇ」
あっ、聞き覚えがあった。これは某刑事ドラマの主役の…
「古畑任●郎?」
そう言って、深駆が目を開けたのと、誰かから思いっきりに水を浴びせられたのはほぼ同時だった。
「なっ…」
起きた瞬間、びしょぬれですか。
泣きたくなりつつも、水をかけたと思われる人物へと深駆は視線をやる。
「ん〜だめですねぇ〜。起きているならばきちんと返事をしなければですねぇ」
思わず、深駆は目を背けたくなった。
深駆は、その人物を知っていた。知っていたどころではない、寧ろ尊敬していた。
中学時代の、陸上部のコーチ。
厳しい、人だった。
元スプリンターらしく、小柄な人ではあったが。足はやはり速かった。
教え方は、上手いかどうかは比較したことがないのでなんともいえないけれど。走ることに関しては、懸命に教えてくれる人で。
「小野コーチ…」
少なくとも、少なくとも、こんな話し方をする人ではなかった。
深くショックを受ける様子を隠しきれない深駆に気にする様子も無く小野は、ふふふふふふふふふふふふふと楽しげに笑う。
「そうですねぇー。まぁ、君のことですからー、試練中に倒れるようなことがあるかもなんてことはもちろん、予測はしていましたがねぇー」
試練、中。
その言葉に半ば混乱していた深駆の頭の中が一気にすっきりとしていく。
そう、自分は先刻まで異世界を仲間と旅していて、そして扉を開けたら…空の上で。それは気持ちよく落ちた。半分以上、死を覚悟していた。
それから意識が無かったのだが…。
そうか、コレはたぶんあのローザさんの試練の中だから落ちて大丈夫だったのか。そして…
深駆はじっと小野を見つめて、そして安心したように笑った。
そっくりだけどこの人も試練の一環で現れた人なのだろう。つまり、小野コーチ本人じゃあない。
そう思った瞬間、深駆はすごく安心した。
と、同時にコレが試練だということを思い出して再度気を引き締める。
これから、何があるのか。
顔を引きしめて、深駆は再度小野(もどき)を見つめなおす。
まずは、この人が敵か、味方かを、知らなければ。
「では」
ごくり、と深駆はつばを呑み込む。
何を、言われるのか。
「服を脱いでください」
「……は?」
深駆は一瞬思考が停止する。
たしか、試練だといいませんでしたか?試練のどこに服を脱ぐ必要があるのか…
「…聞こえませんか?ふ・く・を・ぬ・い・で・く・だ・さ・いって言ってるんです。そんな濡れた服を着たままで風邪でもひく気ですかぁ?まぁ、風邪をひきたくてしかたがないっていうのなら私はとめませんが」
といいますか、貴方が水をぶちかけたんじゃなかったんですか?
そんなツッコミを心の中に留めて、とりあえずは深駆はTシャツを脱ぎ始める。
「あー、それと。私は男のパンツなんてみても面白くもなんともないのでぇー。ズボンは脱がないでください」
そうですか。
なんとなく、ツッコミをいれる気力ないままに深駆は脱いだTシャツをどこに置こうかとあたりを見渡す。
が。
そこは一面、荒れ果てた大地。
「えっと、すみません、これはどこにー…」
「何言ってるんですか。目の前にベンチがあるでしょう。そんなことで私に喋る体力を使わせないでください」
いや、ベンチなんてどこに…。
そんな言葉を返そうとしてふと眼の前を見る。と、そこにはいつの間に現れたやら。白い木製のベンチがデンと居座っている。
これは、ありですか?
「…す、すみません」
謝るしかないといいますか。
深駆は深く深く溜息をつく。
もう、なんでも良いから早く試練を始めて欲しくて仕方がなかった。
「ではー」
深駆がしっかりとTシャツの水を絞りきって、ベンチへとTシャツをかけたところで。小野はそのベンチに腰掛けて言った。
「そこのグラウンドを走ってください。100メートル10秒代になるまでは走り続けてください」
そこ、と小野が地面を指差したと同時。先刻まで荒れはてていただけの大地が突然に白いラインのしっかりと引かれた、広いグラウンドへと変貌をとげる。
…先刻のベンチもたぶん同じようにして突然あらわれたのだろうかぁ…って
「10秒台ですかっ?」
耳を、疑った。
讃岐深駆。人生において最高記録は14秒32.遅いか早いかといえば…限りなく、遅い。
「えっと…俺は」
「走り続けてください」
「いやだから、いきなりそれは…無理といいますか」
「何度いわせる気ですかぁ?走ってください」
びゅん、とグラウンドを駆け抜ける風は、深駆の心の中にも吹きすさぶ。
いきなり四秒タイム縮めろと。しかもそれまで走り続けろと。
またしても、深駆は泣きたくなった。
「えっと…その俺の仲間とかが向こうの世界で待ってるかもなんですが…」
「私の知ったことじゃないです。それより喋るのはつかれるんでー、さっさか走ってください」
聞く耳持たず。
逃げる方法を必死で考えて。ふと、深駆はポケットに入ったままの小さな水晶に気がつく。
とりだすと、淡く輝くピンクの水晶。
もしかしたら。
「ローザさんっ、ローザさん。なんとかなりませんか?」
小さな可能性にかけ、深駆は水晶に声をかける。
たぶん、ローザに通じているかもしれない水晶。
そして、的中。
「なぁにぃー?」
救世主へと、通じたようだ。
「ローザさん。コレは本当に試練なんですか?間違ってませんか?というか本当に10秒台になるまで走り続けなければならないんですか?」
必死に、半ばココから助け出してくれ、と祈りつつ、深駆は水晶へと大声で告げる。
が。
「知らない」
返事は完結。
「ローザの試練はー、効果はバツグン〜。でもどんなのがでるかはローザも責任もてないのぉ。というわけでー。ぬーちゃんは、自力でがんばってぇ」
ぶち。
妙な音がして。連絡が、きれた。
深駆の逃げ道は、消えた。
もう、逃げられない。
すぅ、と一つ息をすう。
濡れたズボンが足にへばりついて走りづらいだろうな、と思いつつ。スタートラインへと歩いていく。
どこまでも広いグラウンド。
思えば異世界に来てから数日間、グラウンドで走るようなこともなければ、腿上げの練習すらもする暇がなかった。
さらに、遅くなっていたらどうしよう。
深駆は軽く屈伸などの準備運動をこなしつつ、異世界の仲間のことを思う。
皆は、大丈夫だろうか。
…いや、むしろ俺がいないほうが足でまといにならないかもしれない。
そして、凹む。
太陽は、もう少しで頂上に辿り着きそうなところで、明るく輝いていた。
(無理だろ、こんなの・・・)
走って、走って、走り続けて。はじめはわずかに縮まっていたタイムも、今では体の疲労に比例して落ちていくばかりで。途中から遊び半分で書きはじめた「正」の字も、もう書くのも見るのも嫌になってきて。
口のなか、喉の奥で、血の味が広がる。
(何なんだよ、この試練。ってか、何の意味があるんだよ)
「・・・くそっ・・・」
息も絶え絶えに一言毒つく。
100メートルラインの終わり。もう立つこともできず、仰向けに倒れこんだ。
空はどこまでも青く、雲は優雅にただよって、太陽はだいぶ傾いてきたが、まだ少し高い位置にいた。
左後方から聞きなれた声。
「ん〜、もうギブですかぁ。根性なしですねぇ」
はじめはこの人物が敵か見方かを判断しなければと思ったが、今はそれどころではない。精神的ゆとりがなかった。
「・・・コーチ」
逆光で表情はよくわからないが、たぶん微妙な微笑みを浮かべているであろう小野を見上げる。
「なんですか?弱音を吐いても、男にやさしくしたりなんてしませんよぉ」
・・・。疲れるなぁ・・・。
「せめて、何かこう・・・ちょっと鍛えてからタイムを取るとか・・・」
ダメもとで言ってみたり。
しかし、予想外なことに、小野は古畑任●郎のごとく考える素振りをみせ
「ん〜ふふふ。あなたがそれを望むのであれば、提供いたしましょう」
「えっ」
ダメもとで言ってみるもんだなぁ。ついでに
「あ、でも、その前に休憩とか取らせてくださると、頑張れるかなぁなんて・・・」
「そこまで人が良くないものでして。今すぐ始めましょう。さ、立ち上がってください」
・・・やっぱだめか。
深駆はしぶしぶ立ち上がり、もう一度、空を見上げた。風が体の熱を連れ去っていくのがよくわかる。なつかしい感触。
みんなは、どうしているのだろうか。咲殿、あぎ様、ヴィルさん、そして、ルカさん。自分が心配したところでどうにかなるわけでもないが、でも・・・。
「讃岐さ〜ん。早く来ないとあと20本行かせますよ〜」
空から小野へ視線を移し変え、軋む脚を歩ませる。
みんなは、きっと大丈夫だ。みんなは、少なくとも、自分よりしっかりしている(はず)。それよりも、今は足を引っ張らないよう、自分のことを心配したほうがよさそうだ。
スタートラインに着き、小野の顔を見る。
「よろしくお願いします!!」
精一杯の声を、張り上げた。
「さてさて。アップはもう十分ですし」
アップどころじゃないだろっと内心でつっこむ深駆。
「フォームについては以前教えたとおりできてますねぇ。ただコントロールが。そこが苦手のようですねぇ」
「はぁ・・・」
わかりそうでわからない小野の言葉にとりあえず耳をかたむける。
「そ・こ・で、ですね」
小野がパン、パンと2回手をたたく。すると、ベンチと同じ原理で大きめの時計がスタート地点とゴール地点、さらにその中間地点にも現れた。
「自分でその感覚を見つけてもらうことにしましょう」
「つまり、自分は何を?」
ふふふふふふふふふふふふふふと笑みを浮かべる小野。その笑みの意味はよくわからないが、というより本能が理解することを拒んでいるというか。
小野は人差し指をピンっと立てて深駆に顔を近づける。
「『ピラミッド』です」
「ピラミッド?」
「始めに50メートル3本、次に100メートル2本、200メートル1本、そして400メートルを1本走ったら、今度はその逆をします。つまり、200メートル1本、100メートル2本、50メートル3本ってな具合に。だから『ピラミッド』です」
「あ〜、なるほど」
何に感心したのかはいまいちわからなかったが、練習の内容はわかった。
「でも、ただ走るだけじゃ練習にもなんにもならないので、それぞれサイクルを決めます。そうですね〜・・・。50を15秒サイクル、100が20、200が35、400を65としましょう。自分でコントロールしながら走ってください」
「『コントロール』って、何をですか?」
「それは自分で見つけてください。それも練習の一つです」
本当かよ、っと言いたげな視線を小野になげる。それに気づいていないのか、それとも無視をしているのか、小野はさっさとトラックからでる。
「まぁ、ひたすら走るよりかはマシかな。タイムもベストタイムから10秒ちかく余裕があるし」
気持ち程度だが楽になり、スタート地点に立つ。
「それじゃ、始めましょう。よ〜い――――」
聞きなれたピストルの音を合図に、深駆は走り始めた。
『ピラミッド15本目。50メートル 9,3 8,9 9,5・・・』
小野はベンチに座り、深駆と時計を見て記録をとっていた。
『400メートル 23,8』
「おやおや」
記録から顔をあげ、
「讃岐さ〜ん、4秒オーバーですよ〜」
叫ぶ。
深駆は手だけあげて答える。
「ん〜、そろそろ限界ですか」
ベンチから立ち上がり、深駆に向かって水分補給のボトルを投げつけた。
「ごふっ!!」
ボトルは見事に深駆の頭部に命中し、落ちる。
「な、何?」
あたりを見回し、ボトルを見つける。気がつくと、背後に小野が立っていた。
「あ、ありがとうございます、コーチ」
「勘違いしないでください。私はあなたに水を与えるほど優しくないですよ。男に優しくしたって何の得にもなりませんし、第一気持ち悪いです。それは私ではなくて空から降ってきたんですよ」
「・・・いや、それはないと・・・」
素直でないコーチ相手に反応に困る深駆。
「讃岐さん、バラバラですね」
「・・・・・・はい?」
「『バラバラですね』って言ったんです」
「いや、だから・・・何が」
「何だと思いますか?」
んふふふふと例の笑みを浮かべ、小野は尋ねた。
「・・・さぁ、自分にはさっぱり・・・」
突然の問いにそう答えた深駆に小野は先ほどの記録用紙を見せた。
深駆はそれを受け取って、ざっと目を通すがそれでもさっぱりだった。
「わかりませんか?」
「残念ながら・・・」
「ん〜、残念です」
小野へ記録用紙を返す。
「本当はあなた自身で見つけて欲しかったのですが、どうも無理のようなので。バラバラというのはあなたのタイムのことですよ」
突然あたりが暗くなり、小野にだけライトがあたる。ちょうど誰かさんが犯人に問い詰める前の、さらにいうとCMにはいる前みたいに。
「短距離である50メートルから中距離の400メートル。それぞれでペース配分が違うことぐらいはおわかりだと思います。問題は『短距離にどれくらいの時間とペースで中距離に挑むか、そして後半を乗り切るか』です。ただ決められたサイクル内に走るためにしているわけじゃあないんですよ。それでは試練でもなんでもなくてただの拷問ですね。まぁ、それはそれでいいかもしれませんが」
暗闇が消え、元の風景にもどる。もう深駆にはつっこむ気力がなかったため、しばらく沈黙がながれる。
「つまり、『自分で時間を考え時間をコントロールしろ』ってことです。そうすれば、ほぼ一定のタイムがでてくるはず。おわかりですか?」
「なんとなく・・・。あ、いや、やっぱさっぱりかも」
「さっぱりというのは困りますが、なんとなくで十分です。さて、あと5本いきましょうって言いたいところですが、もう夕方なので今日はこのへんにしておきましょう」
夕方?
空を見上げると雲はどこかに消え、夕日色に染まった何もない世界が広がっていた。
「じゃあ、かわりにうさぎ跳びをして終わりましょう。もちろん、夕日に向かって」
・・・なんだかなぁ。もう青春漫画一直線ですかぁ。
「さぁさぁ、もう少しです。頑張りましょう。合言葉は『シューズは友達』です」
いやいや、うさぎ跳びに合言葉とかいらないから。っていうか、『シューズは友達』ってなんだよ。『ボール』だろ、普通。
そんなことを内心でツッコミながら、夕日に向かってうさぎ跳びをする深駆だった。
深駆が小野と再会して5日目。
『27本目 50メートル 9,9 9,9 10,0』
「ん〜」
記録をみつめる小野。その小野を見つめる深駆。
『400メートル 60,3』
「ずいぶんと安定してきましたね〜、いい事です」
「ありがとうございます」
ほめられ、素直に喜ぶ。
「で、感覚はつかめましたか?」
「はい。たぶん、大丈夫だと思います」
「どんな感じでしたか?」
「え〜っと―――」
その感覚が急にわかるようになったのは一昨日のこと。そろそろ体力が限界に近づいてきて、サイクルをこなすことで精一杯になりはじめたころ。
「またオーバーだ」
時計をにらみつける。
小野はベンチの上で昼寝をしていた。それを見計らって休憩をとることにした。
「『時間と時間』か」
あのときは本当に『なんとなく』わかっただけで、実際に実行しろと言われるととても不安になる。
自分はとにかく、一本一本を大事に、自分のベストがでるようにと走ってきた。折り返しの400メートルでは半分がむしゃらに走っていたようなものだが、それでも、自分のベストに近づけるようにと。ラストの50メートルなんて時計を見るのも嫌になるようなタイムだった。
きつかった。体力的にも精神的にも。しかし、それが特訓であり、試練だと思っていた。人間は自分を追い込むことで成長する。そう思っていた。
でも、ちがう。それは小野の反応を見ればすぐにわかる。何が違うのか、それがわからなかった。
「なんだろうなぁ・・・」
ぼんやりと空を見上げる。いつもの風が、自分を励ましてくれているような感じがした。
「何のために私がサイクルタイムを5秒も10秒も余分にとっているのか」
ぎくっとして、ベンチに視線をむける。小野は顔だけむけてこちらを見ていた。
「お・・・起きていらしたんですか」
「別に私は寝てなどいませんよ」
「・・・うそつけ」
風にだけ聞こえるように小声でつっこむ。
「もうこれ以上のヒントはあげませんからね。あ。それから。私はこれから寝ますから絶対に起こさないでください」
「結局寝るんですかい!」
今度は全てに聞こえるように大声でつっこんだ。
しかし、そのときにはすでに小野は夢の中にいた。大きな鼾をかきながら。
深駆は必死で小野の言葉を考える。
「時間、余裕なサイクル・・・」
エンドレスで回る二つの言葉。ひたすら反復して、そして、
「あ・・・。あ〜、そういうことか」
ひらめいた。頭上で電球に光が灯る。
「・・・たぶん・・・」
幾分か自信がなかったが・・・。
「たぶんだけど、『時間を考えて時間をコントロールしろ』っていうのは、実践するなら『時間を決めてその時間ジャストで走れ』ってことじゃないのか?たとえば50メートルを10秒で走るなら10秒ジャストで走らなければいけない。・・・のかなぁ・・・」
だんだんと自信がなくなってきたが、とりあえずはそれが自分の答えなので頑張ってみることにした。
「とりあえず、50メートルは10秒として」
スタート地点に立つ。自分の中の体内時計をスタート地点の時計と合わせる。
「よーい―――――」
構える。
「どん!」
スタートと同時に体内時計も動き出す。
カウントをしながらペースを調節する。
ゴールして時計を見る
「9,5か。なかなか難しいなぁ」
ゴールの時計は体内時計と同じタイムだったが、カウントとペースとの両立が成立していない。
「よし、次」
スタートの準備をする。
「さて、感覚を掴んでいただいたところで、本題に戻りましょうか」
「本題?」
「え〜・・・、お忘れですか?100メートル10秒です」
「あ・・・」
すっかり忘れていた。
「で、でも、たしかに自分は時間ちょうどに走れるようになりましたが、それとこれとは話がまた別かと・・・」
「ん〜、全然違いませんよ。それに、何事もやってみなければわからないものですよ」
さあさあと小野に促され、スタートラインに立つ深駆。
「練習の成果を見せてください」
無駄にプレッシャーをかける小野。こんな人だったっけと久しぶりに深駆は思う。
「よーい」
ピストルをかかげる小野の姿を目の端で捉えつつ、かまえる。
『パンッ!!』
乾いた音とともに走り出す。
1・・・・2・・・・3・・・・
少しペースをあげる。
5,0・・・5,5・・・6,0・・・
半分以上をすぎた。
7,76・・7,77・・7,78・・・
(間に合わないかも)
ゴールラインを越える。
呼吸を整えながら、恐る恐る時計を見る。
『10,00』
そこにはきれいな数字が並んでいた。
「お疲れ様です。よくできました」
「あは・・・あははははははははははははははは!」
これまでにないくらいのハイテンションで深駆はグランドを駆け回った。ルカたちがみたらひくだろうな〜っと思いながら。
「ありがとうございます、コーチ!このご恩は一生忘れません」
「いえいえ、私は大してことなどしていませんよ。っといいますか、男に恩なんかつくりたくないです」
本来ならつっこむところだが、ご機嫌な深駆はまったく気にしなかった。
「さてさて讃岐さん。あなたの試練はこれで終わりです。早く仲間のもとへ戻りなさい」
突然現実に引き戻された。仲間のことは忘れなかったが、今はのんびりしているときではないのだ。一気にテンションが下がった。
「お別れ、ということですか?」
「そういうことですね。あなたにはまだやるべきことがあるでしょう?」
「・・・。名残惜しいですね」
「そうですか?」
人がしんみりとしているところを見事にぶち壊す。
「さあ・・・」
小野が深駆の背後を指差す。そこには今まで存在していなかった扉があった。
「コーチ。ありがとうございました」
深く頭を下げ、そして扉へと向かう。
「讃岐さん」
呼び止められ、振り返る。
「『シューズは友達』です」
「『シューズは友達』、ですね」
扉をあけ、歩みだす。仲間のもとへ。