13


「うおおぉぉ!」
蛇笏の辺りを駆け回り蛇笏の攻撃をかわしつつこちらからも攻撃を繰り出す。そのスピードは衰えていない。
「なかなか動きが速くなったじゃない。楽しくなってきたわ」
嬉しそうに言う蛇笏。それを無視して背後に回り、斬りかかる。
「何!?」
叫ぶと同時に背中に激しい痛みが走った。だが血は流れていない。あえて峰で打ったのだ。
 さすがの蛇笏も少し焦った。
 その焦っている間にヴィルは左に回り、今度は胴を凪いだ。
 が、これは交わされ、反撃を繰り出された。
 それを跳んで交わすとそのまま下がった。
「やってくれるじゃない。さすがはローザに見込まれた男ね」
さっきとは逆のことを言っているが気にしない。
「はっ、あんたにとって俺は弱いんじゃないのか?その俺に一撃食らって焦ったのか?」
毒舌を吐き、それからまた動き始めた。
「別に〜。あんたごときで焦るわけないじゃない」
図星だったがなんでもないようにいつもの表情を貼り付けて蛇笏も動きだした。
 ヴィルがいる場所に向かって剣を振る蛇笏。それを交わし、さっさと別の場所に動き次の攻撃を待った。
 再びヴィルがいる場所に動き一撃見舞おうとする。
 だがそれはヴィルの思う壺だった。
 余裕綽々で交わすと回し蹴りをした。
 その回し蹴りを直撃を受けた蛇笏は倒れた。
「くそっ!この×××××」
かなり汚い言葉が形のいい唇からこぼれた。
『ついに本性出したか、この変態』
あぎは岩陰から顔を出し、なぜか嬉しそうに言ってすぐに引っ込めた。
 そのあぎがいる岩のほうを睨むとそこに向かって走り出し両手で剣を振り下ろした。
 あぎは慌てて岩陰から出ると、ヴィルのところに向かった。
 間一髪で蛇笏の剣を逃れた。岩の上に立ち、剣を振り下ろした蛇笏を見たあぎは、
『こっわ〜』
と呟いた。
 それを一瞥すると、あぎを左手に持ち岩陰に放り投げる前の状態になった。
「もう一回使わせてもらうぞ。使えるかどうかは不明だがな」
『おっしゃー!待っとりましたー!』
やる気満々のあぎ。こいつが自分で動けるのになんでこっちが振らなければならないんだと思うヴィル。
 岩の上に立ったままの蛇笏は二人の会話を聞きながら振り返った。その眼は怒りで見開かれていた。
「怒り狂っているな。早いうちに勝負をつけたほうがいいだろう」
冷静な判断を下し、攻撃に移った。
 蛇笏はその攻撃を軽くかわし、突きを繰り出した。
 その突きをあぎが刃に巻きついてその動きを止めた。それから、こちらからも突きを繰り出した。
 それを交わしきれずに、肩を斬った。
 だが、蛇笏はそれでは怯まずに刃に巻きついているあぎを掴んで引っ張り寄せた。
『おわっ!』
そのまま伸びずに引っ張られ、ヴィルは思わず手を離した。
「しまった!」
そう言っても後の祭り。あぎは蛇笏の手に渡った。
「あんた、よくもさっきから邪魔してくれたわね?お仕置きよ」
再びあぎは蛇笏の手によりめった打ちにされた。
 あぎはかなりのダメージを受け反撃も抵抗もできないでいた。
「あとでじっくりと遊んであげるから大人しくしといてね」
それを言い、あぎを放るとヴィルと対峙した。
「てめえ、よくもあぎを……」
かなり怒っているような口調。それでも、なるべく冷静にいようとした。
「どうやら最初っから俺は一対一でお前と戦わなければならない状況だったようだな」
「あら、やっと分かってくれた?一人ずつやるのが私の主義でね」
「そんなことはどうでもいい。とっとと決着をつけようか」
「そうね。そうしましょう、か!」
俊敏な動きでヴィルのところまで来ると、剣術ではなく体術を仕掛けた。
 かなり速い。
 交わすことができず、防ぐことしかできないでいる。
 反撃の糸口もない。
 こんな状況でも、相手の蛇笏の動きをよく見ている。どこかに弱点があるからそれを見抜こうとしている。
「くそっ、埒があかん!」
明らかに無理な反撃を仕掛け、逆に投げ飛ばされた。
 その投げを受身でダメージを最小限にすると、距離をとった。
 しかし、そのとった距離も再び一気に埋められ、両手の突きが来た。
 少し後ろに下がり胴で迎え撃つ。
 蛇笏は慌てて突きをやめ距離をとった。
 その一瞬をヴィルは見逃さなかった。距離をとろうとする蛇笏を追いかけ、再び胴を見舞った。
 距離をとろうとすると多少の隙が生まれる。そこを狙って一気に攻め込んだのだ。
 ヴィルの二発目の胴が来たことを確認した蛇笏は、咄嗟の判断で高く跳んだ。それを追いかけるようにしてヴィルも跳んだ。
 両手で刃をヴィルに叩きつけるようにする蛇笏。
 片手を峰に添えた剣で蛇笏を押し上げようとするヴィル。
 一瞬の空中戦だった。
 当然如く、蛇笏が先に着地をして、ヴィルが遅れて地に付いた。
 二人ともすぐにまた向き合い、構える。ヴィルの左腕から血が流れていた。
「空中戦って苦手なのよね。陸上戦だけにしてくれる?」
「くそっ。空中でもやられたか」
陸上では分が悪いと判断したのか、あえて空中戦に持っていったのが凶と出たようだ。
「空中でも陸上でもダメ、か。残るは水中……。いや、これだったら俺も無理か。」
延々とぶつぶつ言っている。
「あー、面倒くせー」
結局はそこに辿り着いた。
「な〜に独りで言ってるの?私に勝てないって思って降参する気になった〜?」
「しねえよ。あんたは絶対に俺が倒す」
「その意気よ〜。それじゃ、行くわよ!」
迫ってくる蛇笏をすれすれの位置で交わすと、後ろから斬りかかった。
 蛇笏はすぐに反転し、ヴィルの攻撃を弾き、その反動でできた隙を狙って振った。
 それを交わしきれず、右腕で防ぐ。かなり長く切れたものの、あまり深く切れていなかった。それでも、かなりの量の血が流れ出てきた。
 動きが止まっているヴィルを蛇笏は蹴り飛ばした。それから、右手を踏みつけ、剣を手からもぎ取り放り投げた。
「しまった」
蛇笏から離れ、剣を取りに行こうとしたが踏みつけられたまま立ち上がることができない。
 少し考え、左手を精一杯伸ばして蛇笏の足を掴むと蛇笏はバランスを崩した。これで、右手が自由になり起き上がることができた。
 蛇笏の立ち上がりは思いのほか早く、ヴィルは剣を取りに行くことができなかった。
「甘い考えね〜、おにいさん?」
「上手く行くと思ったんだがな。失敗か」
さほど落胆した様子もなく言う。心の中では「くそっ、この変態やろう」と思っていた。
「さ〜て、剣無しでどう戦ってくれるか楽しみだわ。まさか、さっきみたいに不意打ちはないでしょうね?」
それを言った途端、ヴィルの踵落としをまともに受けた。
 その次は、腹を殴られ、ハイキックで飛ばされた。「ちっ、さっきと変わらないのかよ」
無気味な笑いを顔に浮かべながら言う。
 立ち上がっている途中、こめかみに肘打ちを叩き込まれ、よろめいたところを掴まれ背負い投げをされた。
 ヴィルは投げ、素早く蛇笏の腕を放すと、自分の剣を取りに行き、倒れている蛇笏の喉元に剣を突きつけた。
「勝負あったな」
静かに言うヴィル。蛇笏は笑いながら、
「まだ着いてないわよ。どっちとも死んでないじゃない。どっちかが死ぬか降参するまで戦いは続くのよ?」
「何?」
驚きの表情を隠せない。今まで相手を殺して勝ったことなどほとんどないから、相手にトドメをさすことに戸惑っているのかもしれない。砂人形なら躊躇う事無くトドメをさしているのに。
「どうしたの?早くトドメをさしなさいよ。それとも、それができない見掛け倒しなの、お兄さん?」
「……」
「そう、できないのね。だったら……」
蛇笏は裏拳で剣を払いのけると、ヴィルを蹴飛ばして立ち上がり、殴りかかった。
 五、六発殴るとヴィルはあっけなく倒れた。
 そこを、さっきヴィルがやったのとおなじように刃先喉元に突きつけた。相違点は片手か両手かだけだった。
「これで勝負あったわね?」
「……、どうかな」
「強がり言ってもダメよ?私はあんたと違って躊躇わないからね」
「まだ勝負は決まってないんじゃないのか?どっちともまだ動けるだろ?」
「そうかもしれないけどね、この状態だったらあなたに起死回生は望めないわよ?」
(くそっ、弱点なんて見つかんねえぞ)
歯軋りをしながら思った。
 蛇笏はさっきと同じ状態のままだ。
(待てよ。そういえばさっきの空中でも、それより前の攻撃もほとんど両手だったな。片手なのは受け流す時を最初だけ。そうか!俺の推測が正しかったら……)
ヴィルの顔が少し明るくなったが蛇笏は気付かない。
「それじゃ、とど……」
そう言いながら剣を振り上げた時、あぎが突然起き上がり、
『ぎーーーー!』
あぎが体を伸ばして蛇笏の腕に巻きついた。
「何?こいつまだ動けたの?」
驚いたのもつかの間。
 ヴィルは蛇笏から逃れ、あぎに蛇笏から離れるように目で合図すると、あぎを左手に持ち鞭状にしならせて、蛇笏にぶつけた。
 今回は上手く使ったためかなりのダメージがいった。
「ちっ、いい加減にしろ!」
ついに蛇笏が怒りだした。
 ヴィルに面を思い切り振り下ろす。
 鞭状のあぎでその腕を払うと、蛇笏に一瞬の隙ができた。
 その隙を見逃さなかった。
 蛇笏には隙があまりないようだが意外と隙がある。そこを狙えれば勝てると思った。
 胴を凪ごうとする。
 ここではっとしたヴィルは剣の軌道を少し下にして足の肉を切った。
 骨には達していないからまだ立てるものの、かなり応えるだろう。
「うぅぅ、足が立たない。でも、こんな所で負けるわけにはいかないのよ」
無理矢理まだ無事な足に全体重をかけ姿勢を維持しようとする。
 しかし、剣を杖代わりにして立つのがやっとだった。
 あぎを放ったヴィルは一気に決着をつけるため蛇笏に迫った。
 蛇笏は杖にしていた剣を片手で持ち上げようとして、何を思ったのか両手に持ち替えた。
(やっぱりそうだ。こいつは剣を両手でないと振り上げられない。ここを狙えればいい。足をやったのは正解だったな)
 振り上げて胴に隙ができた瞬間ヴィルは峰で胴を打った。
 かなり鈍い音がした。内臓が少々破裂したかもしれない。
 蛇笏は吹っ飛ばされ、倒れ、動かなくなったが一応脈はある。
「あぎ、さんきゅ」
あぎを一瞥し、蛇笏を一瞥すると剣を納めた。
『さっさと合流せんとな』
「ああ、そうだな」
『あんちゃん怪我大丈夫か?』
「問題ない。この程度は」
この程度と言いつつもかなりの切り傷と痣が確認される。
 しかもまだ出血している傷もある。
 そんなこと構う事無く二人は歩き出した。


 14


「ルカ……さん?」
言っても何も返ってこなかった。代わりに不規則な呼吸、押し出されるように漏れるそれ。表情、彼女の大きさの前には信じられなかったこれ。
「『逃げろ』か……まあ間違った判断ではないが」
 熱はあまりない。いや、むしろ低すぎる。そして、淡い昏睡。これは一体……。
「そう単純には、」
「彼女に何をした」
 少しの間。
「……死にはしないさ。精神を極限まですり減らした結果だ」
 大丈夫、か……違う、そんなわけない。
「それにだ、今のはお前の非でもある」
 とりあえず止血だ。あと吐血も見られる、こんなの習ってないけど、なんとかしないと。
「……何をしている?」
 ああ、前のが治りきらないうちにか、しかもより深い。くっそ、手持ちがこれじゃろくなことができないじゃないか!
「おい」
 内臓は……下手には触れない。俺にできるのは外傷だけなのか。
「……」
 やれることやるしかない。痛みが和らげば少しは……少しでも楽になって欲しいから。
 不意に頬に鋭い熱。
「現状が把握できないのか」ずいぶんと近い声。
 じんじんと、痛み。同じ熱だからか、液体の伝わる感覚だけが分かる。
「今お前は、」
「黙れ」
「いや、お前が心配でな。そういうわけには、」
「心配なんかしなくても、お前は後で殴ってやる。……絶対にだ」
「……いい返事だ」
 後は包帯を……よし。他に目立った外傷はこれといって無い。吐血も、もう治まっているようだから、きっと内臓もそこまでは。
「向こうで待っている。急げよ」
 結局一番の問題はこの精神的なやつなのか。どうする?何ができる?
 ……。
……ルカさん、すいません。

  ごほん、と咳払い

「ル……ルカさん、やりました。うまく逃げ切れましたよ……もう、大丈夫です」
 ささやいた瞬間に顔に浮かんだ安堵の表情。呼吸も一段落の落ち着きを得た……なんだかなー。
 これは次第に眠りへ変わるだろうと確信。すると、同時に腹の底では熱が。
 ……ルカさん、本当にすいません。
「でも、本当に大丈夫だから」
 今は拳を握る。


「始めようか」互いの姿が確認できた時点で、俺はまだ足を進めているうちに聞こえた。
 待ちわびたというよりはもっと冷たい、それにしか興味がないような印象をうけた。いや、恐らくそうなんだろう。
 静かに構えた相手。そのわずかな仕草に浮かんだ『綺麗』という印象は強制的に消し去ってやった。
注意すべきは両のグローブ……自分のと似ている。それどころか拳の水晶の違い、自分の藍と相手の青緑、エメラルドというべきか、を除けば外見上は全く同じものに見える。さっきのナイフのありえない起動、これによるものだろうか。それとも相手自身の力なのか……。
「クレスケンスルーナ、ラティス様に頂いた」
構えながらもその視線はグローブを指していた。
「周囲の物体を己の意図の下に操る」
「……?」
「これを中心に円形の力場を構成、さらにその中で空間ごと動体を維持。他の精神媒介ツールと同様、基本はイメージによる精神代価。力場の広さ、動体空間の質量、数量、速度、そしてコントロール、膨大な精神値はもちろん瞬間を掴む動観と刹那を見つめる静観とが必要、だそうだ」
「……」解説、らしい。なぜ?
「気になるんだろ、つまらんことに気をとられてはたまらんからな」
 つまりは余裕らしい。
「安心しろ、お前には使わない」
 !……これもか。
「そろそろ来るといい。今のお前は無駄に慎重だ」
 言われて一瞬ひるんだ自分を知った。
「それともなんだ、時間を置いたのがまずかったのか?」
 重く、動きの無い声。かたどられたかの様な表情……きっと強い。
「あいつを殺して、あの場で始めるべきだったのか?」
 はじめて見たその笑み。知ると同時に体内で爆発する感情。
 殴る!

  トン、

「つまらんことに気をとられるな」
 頭上から降ってくる声。両手はいつの間にか落ち葉に触れていた。額に残る柔らかくて冷たい感触。
「せっかくの怒気なら、有効に利用しろ」
 しりもちをつかされた自身をやっと知る。
「じゃないと、つまらないだろ」
 降ろされた眼光はひたすらに深くも無機質で、皮肉すら秘められてはいなかった。


 拳を振り被る。同時に悟ってしまう―当たらない、
 打ち合わせたかのように当然のものとして空を切る。
 今度は相手の腕が俺へと伸びるのに反応した。
 次の瞬間、視界は何かに覆われていた。

  ガンッ

 鈍い音と衝撃、急激に後方に反る上半身、足を急いで下がらすことでなんとか持ちこたえる。
「くっそ、」
 再び接近、肘を引く、拳の水晶が輝き始めるのを知っている。だが、すでに流れるような敵の重心移動、
 数秒前と全く同様、拳は何にも触れない。
 俺自身に当てる気が無いのでは?という錯覚さえ覚えている。
 すると、いつの間にか消えていたその姿。
 ふところの凝縮された威圧感を知った時には遅すぎた。

「少しだが、初めよりはましだ。だが、あくまでそれに頼るようでは意味は無い」
前髪の向こうの声は息切れすらない。
腹がきつい、口の中は胃液で苦い。確か今ので腹は五発目。顔面は十以上だろうか。倒されるたびに追い込みの代わりの一言。明らかに遊ばれている。
けど、負けてやる気は無い。こいつはルカさんを……。
「いいぞ、まだ持つか」
 向こうで笑みと共に漏れた声。
「初めはどうかと思ったが、これはこれで悪くはない」
 視線は下げながら自身に確かめるように呟く。俺はこれにグローブの五秒を少しでも稼ごうと思う。
「俺の最期の戦闘、その目を折って締めとしようか」
「……最後?」
「なんだ知らないのか?この世界は……」
 何かを思って次を続けずに口を止めた。構えを崩し視線を落とした。何かを考えている。完全に俺は意識から外れた。
 ……今がチャンスだろ、グローブのタイミングに敵の隙。
でも、六割の意地と四割の諦め。
「そうだな、それもいい」
 言って正面を向いた敵。輝きを終えたグローブ。しまったと思う。
「端的に言おうか」
 まだ会話が続くと知って、今度こそは、と願うように思う。
「お前らが負けたなら、この世界は滅ぶだろう」
「……なんだよそれ」
本当の驚きの裏で、姑息にカウントをとる俺。
「お前らの持つもう一つの秘石、それがラティス様に渡ったなら全てが終わる」
 何かすごいことを言っている……でも、だからなんなんだ。
「分かるか、お前は……」
 今は……お前を倒さないといけないんだ!
 水晶に沸く輝き、まだ口を動かしている敵。体中の細胞が一斉に叫んで、地を蹴る。
 俺の拳が伸びるのと、敵が口を閉ざすのは、ほぼ同時、
  だったはずだ
「……失敗、か」
 ため息交じりのそれをすぐそこで聞いくまではそう思っていた。
 それからすぐ、腹に予期した衝撃、呆然の無重力。
「しょせん、その程度だったか」
 向こうの変わらない口調、でも違う、冷気すら消えうせている。
「殺すか」
 耳を疑った言葉、確かに聞こえた地を蹴る音。
 顔を上げたらそこにいた、咄嗟に知ったその右拳。
 跳ぶ!

 鈍く乾いた破壊音。見上げると、自分の胴回りほどの樹木に深く突き刺さっている拳。
「興ざめだ」
 俺を見下すその眼は光も無ければ色すら失っていた。引き抜かれた拳に合わせてゆっくり傾く樹木。倒れたそれは大地を軽く揺らした。
「目も死んだか」
 大きい、あまりにも大きいその姿。心臓から渦を巻き、体を飲み込んでいく悪寒。
  ―勝てない―
「死ねよ」
 静かに突きつけられた言葉を拒む気力すらない。
 ゆっくり迫る拳。目を瞑る。

ぼびん

 間の抜けた音に目を開けた。目の前の空気にヒビが見える。
「……最高に、下らんな」
 小さな舌打ちであらぬ方向を見やる敵。目の前のヒビが入った空気、ガラスのようだと知ったそれは静かに砕け、消えていった。
「逃げて……ください」
 その音に振り向く。確かにそこには、ルカ。
「もう、いい」
 だが、敵の存在は揺らがなかった。
「楽しめる道理も、もう無い」
それどころか逆にその硬度に完璧を思う。
「逃げなさい!」
 敵に圧されて、声に放たれて、頭を一つのことだけが支配した。
  逃げろ!
 瞬間、意地も怒りも全て放り投げて、駆け出す自分。己の弱さだけを無様に抱いて、逃げ出す誰か。
 恐怖から脱することだけが、空っぽの胸で空回りした。

「最悪だ、お前らは」
 その背中が消えてからすでに弱りきったルカに言う。久女にはもはや何も残っていない。ただ、相手を仕留めるだけ。
「……」
 無言の、何かを答える余裕すら無いルカ。それでも今一度みなひめを握る。


 ……変わらない、逃げられない。どんなに走ってもすぐそこに感じる罪悪感、責任感、そして何よりの恐怖感。
 変わらない、どこまで行っても同じ景色。罪悪感に満たされた牢獄。
 逃げられない、どんなに弱い自分を主張しようと許してはくれない。いいかげん嫌になる良心。
 ついに走れなくなっても、頭の中は真っ黒で何も考えられない。ただ苦しい。心臓が締め付けられる感じ、酸素が全然体に回らない。ひたすらに今は呼吸だけ。
 それさえもいずれは落ち着いて、頭と胸とで感情と思考とが氾濫する。
  戻れ。
 双方から唐突にわいたそれをとんでもないと否定した。
  なら、
 嫌だ、と胸の中で叫ぶ。無理だ、と頭の中でわめく。
  じゃあ、
 もう全てが嫌だ。全部拒否する。いっそ消えてしまいたい。
  これからどうするんだ?
「……」
 瞬間、この重さを知った瞬間に全ては静かになった。頭の中も胸の中も答えをすがろうと思ったとたんに、ただ黒いだけの空間に変わった。五月蝿いはずの良心すらも黙り込んだここ。ただ独り立ち尽くす他なかった。

 自分は……ルカさんを待つ
  帰ってくると思うのか?

 他の皆が来るのを待って、それから……
  皆に会わせる顔があるのか?

 じゃあ、じゃあいっそのことこのまま逃げて……
  そしてどうなる?それから何がある?

 ここで死ぬ
  意味があるのか?

  独りでいいのか?
  仲間を、友人を失って『俺』に何が残る?
  十年後に、明日に、一時間後に、一秒後に、
  笑う自信があるのか?

 ……分からない、解るわけない。独りだもの。
 ……でも、やっぱり……違う、解らない!……だけど……。
 汗ばんだグローブをただ汗ばんでいるから外した。外気に戻って、心地よく冷えていく指先。
 ついでに一つ、すがるものが見つかった。
 手首の時計、側面のボタンを一気に三回押す。それに遅れながら画面は一回ずつ移り変わる。そして出現したのはストップウォッチ。
  毎度の試合のちっぽけな縁起担ぎ
今、スタートを押す……動き出した数字を、流れ出した時間を無心で見守る。

  《1》、《2》…《3》
 その流れに飛び込む。
  《3.4》《3.9》《4.2》《4.6》
 流されながらも、じっくり腰を据えていく。
  《5.0》《5.3》《5.7》《5.9》
 焦らず、確実に、見据えろ。
  《6.1》《6.3》《6.4》《6.5》
 ゆっくりと大きく。
  《6.6》、《6.7》、《6.8》…《6.9》…
 体中の皮膚で感じ取れ。
  《7.0》…《7.1》……《7.2》……《7.3》
 今、潜れ!
  《7.34》《7.41》《7.45》《7.50》
 粘れ、耐えろ、しっかり見るんだ。
  《7.53》《7.58》《7.61》《7.62》
 ……本当はどうしようもないぐらいに明らかだった。
  《7.63》《7.65》《7.66》《7.67》
いろんなものに溺れていたのかもしれない。
  《7.68》《7.69》、《7.70》、《7.71》
 当然だと、必然だと考えていた、いらないモノの海。
  《7.72》、《7.73》…《7.74》…
 今はただひたすらに、
  《7.75》…《7.76》……
 一番シンプルな俺に従え!










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